LoseYourSelf

低学歴。非モテ。俺たちの逆転劇はここから始まる。英語と読書、恋愛、そして人生を。

成人(大人)としての条件

成人の日。

全国各地で20歳の子らが、成人としての抱負を晴れやかに語っている。

 

 

「成人として〜」

「社会人として〜」

さすが日本の学校教育。全員が全員、同じことを言うことができ、お偉いじじい(老害)どもを笑顔にさせることができている。

 

しかし、残念ながら、「大人」は20歳になった瞬間手に入る資格ではない。

 

そんな風に思ったので本記事を書くことにした。

 

 

 

そもそも、僕は成人になったという表現があまり好きではない。

そもそも成人とはなんなのだ。

 

「今日から成人として〜」

 

揃いも揃ってみんなが言うこのセリフはすごく気に入らない。

 

 

「今日から成人」

 

成人の日迎えて、昨日の自分とは何か変わるのだろうか?

決して何か変わることはない。

変わるとすれば一時のテンションで語る抱負くらいだろう。

 

「社会人としての自覚」

そんなことを意識して生きている奴がいたら是非教えて欲しい。

 

 

 

僕はこれまで、いわゆる「成人」と呼ばれる大人たちの中でもでもクズみたいな人をたくさん見てきた一方で、中学生くらいから大人みたいな人もいる。

 

残念ながら成人式を終えたごときで、成人たちを(僕も含めて)大人と認めることはできない。

 

では、何が大人と子供を分けるものは何か。

 

 

僕は、前から感じていた違和感を元に大人と子供を分ける物差しを考えた。

 

それは、すばり

「感情に流されるかどうか」

だ。

 

子供を想像してみてほしい。

子供は自分の感情にのみ従う。

自分にとって気持ちの良いことは善、悪いことは悪。

 

思うようにいかないことがあれば、感情を発散し(泣く)、周りの人間をコントロール(欲しいものを買ってもらう)しようとする。

 

 

大人は違う。

基本、普段の生活するのかで、人生の大半は思い通りにならないことを知っている。

世の中の人を感情的にコントロールしようとしても、それは無理であり、人はそんな風には動かない。

だから、感情的になっても意味がないということを知っている。学習している。

 

 

怒りや悲しみを自分で整理し、冷静に論理的な方法で、目の前の状況に臨む。

これが大人だ。

 

 

まあこれはすごく難しいことではあると思う。

大人でも、何か揉め事があるとすぐにキャンキャンと言い合いになるケースは多い。

(まるで子供の言い合いだ)

 そんなに声をあげても意味はないのに。

むしろ感情的になることは不利にはたらくケースが多い。

 

 

口論に限った話ではない。

 

 

乗り越えられそうにない壁にぶち当たった時。

それを周りのせいにして酒を飲みながら愚痴るだけでは子供だ。

愚痴りつつも、愚痴った後は、しっかりと目の前の課題に向き合う。

 

自分がやるべきことは何か。

その姿勢が僕は大人だと思う。

 

 

「ママに助けを求めていないか?」

これを指標にするといい。

 

 

自分からママに

「こういう時はどうすればいい?」

とアドバイスをこうのはありだ。

 

 

でも泣いてたかって(不幸を演じて)ママを呼ぼうをするのは子供だ。

 

 

社会人としてのマナーとか、そういうものは「大人かどうか」という判断でさほど重要でない。

そんなものは中学生だって身につけらる。

 

自立・自律した態度こそが、大人に求めらる条件だ。

 

知識の複利。知識は指数関数的に増えていく。

 

みなさんが知識を得る手段はなんだろうか。

僕は、大半が読書だ。

読書は楽しいし、手っ取り早く新しいことを知れる。

知識を広げる上で読書は大変素晴らしいツールだ。

 

このブログの読者も読書ユーザーが多いはずだ。

 

しかし、世の中を見渡してみると、本を読んでいる大多数はおっさんなのである。

電車やカフェで、本を読んでるのは30代、40代が多い印象だ。(おっさんって言ってすいません)

 

僕の同年代(20代前半)で本屋にいる人はほとんどいない。

非常に勿体無いことだと思う。

僕は若い人こそ、本を読むべきだと思う。

 

 

なぜなら

 

 

知識は指数関数的に増えていくから。


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例えばだ。

 

車の構造の説明をするとしよう。

 

 

「車は、エンジンとタイヤとフレームからなっている。」

 

大半の人は「なるほど!」と、これを聞いてすぐに理解ができる。

 

 

しかし、なぜ理解ができるのかというと、「エンジン」「タイヤ」「フレーム」という知識が既にあるからなのである。

 

ところが、エンジンもタイヤもフレームも知らない人にそれを説明するときはどうだろう。

エンジン、タイヤ、フレームについての説明もしなくてはならない。

さらに、エンジンを構成する「鉄」を知らなければ鉄の説明から始めなくてはならない。

 

 

このようにして、知識がないほど勉強することは多くなるのである。

従って知識を得るスピードはますます遅くなる。

 

だから知識のない人ほど、勉強する時間がかかる。


知識のない人がタイヤの勉強をしている間に、知識のある人は車の仕組みなんて一瞬で理解し、すぐに電気自動車について勉強することができる。

 

この時点で、

Aさんの知識:エンジン

Bさんの知識:車(エンジン、タイヤ、フレーム)、電気自動車

という差が開いている。

 

今後、月日が経つほど、この差は顕著に広がっていく。

 



差が広がる原因となる理由をもう一つ。


知識の少ない人は、情報を取りこぼす。

 

知識のあるBさんは、新聞やニュースで「電気自動車」というワードが出ると、それが自然と目にとまり、聞き耳をたてる。少し調べたりもするかもしれない。

そして、その知識は飛行機、電車といった隣の分野にも応用されていく。

 

一方、Aさんは電気自動車はもちろん、車のこともまだ知らないからそういうワードに反応することすらない。

最近で言えば、「会社員、基礎切除10万引き下げ」というニュースがあった。

おそらく、多くの大学生諸君はスルーしたであろう。心配いらない。僕の会社の人でさえ、スルーしている。

彼らは基礎切除という言葉を知らない。そんな概念もない。

自らが不利を被っているのに、それに気づくことすらない。

(知らぬが仏とはよく言ったもので、ある意味幸せなことだ。)


このようにして知らないことに対しては反応できないのである。


日常の中で無意識的にスルーしてしまう。

 

これがモノを知らない人が損な理由だ。

 

Bさんは「勉強しよう!」という意識など大して持っていない。しかし、予備知識のおかげで、知識が勝手に広がっていく。


一方で、Aさんは難しい言葉はスルーするから、一生そのまま。

 

これが、「知識はさらに知識を生む」メカニズムだ。

このような「知識の複利」は計り知れない。

 

世の中を生き抜く上で、知らないことの代償はあまりにも大きい。

 

 

幸い、あなたはまだ若い。

20歳の今、その知識を得られれば、あと80年それを生かして生きていける。

30歳になってからでも遅くはないが、知識がないまま過ごした10年の差は想像以上に大きい。

 

 

 

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読書で得られるのは、みなが言う「知識」ばかりではない。

そもそも読書をして雑学王など誰も目指していない。


知識とは、英単語を何個知っているとか、元素記号を全部覚えてると学校教育的教養に限った話ではない。(もちろん、文字通りの「知識」も必須だ。)

 

 

もう一つ身につけておきたい知識としてあるのが

「モノに対する見方(考え方)」

である。

これも複利が効いてくる。

 

 

我々は、読書を通して疑似体験をする。

そこで、すごい人たちの考え方、論理、思考体系、視点を通してモノを見ることができる。

 

大切なのは、それらを見破り、パクることだ。

そしてそれを自分の頭で考える。

これをすればかなり視野が広がる。

 

「困ったなあ......。待てよ、こんな時、柳井正本田圭佑アドラーならどう考えるだろう。」

思考の訓練である。

 

繰り返すほど、自然と身についてくる。

 もちろん、新たな考え方を身体に落とし込むことは長い年月を要する。

 

おっさんであるほどこれは厳しい。

おっさんは立場上、建前もあるし、考えを変えることは自分の過去を否定することにもなるので、なかなか考えを変えることはできない。

 

一方僕らは、まだ若い。

言っていることがコロコロ変わってもいい。

失敗も許される。

トライアルアンドエラーが可能なのだ。

 

だからこそ日常の垣間で、そういう思考の切り替えを若いうちから、どんどん実践していこう。

多くの人の思考回路の基盤は、自らの経験、親、学校の先生、会社の上司のみで成り立っている。

 

ゴミだ。

そんな基盤では、奴らと同じような人間になるのがオチだ。


若いうちからやるほど、練習の時間は長くとれる。

時間をかけて、新たな思考をインストールしよう。

クソみたいな考え方をアンインストールしよう。

 

テレビやスマホニュースなどの簡易な情報で、それらをすることはできない。

理解しやすいように作られている。要はバカでも読める気持ちのいい情報なのだ。

 

視野を広げるには、自分を打ちのめしてくれる情報と出会わななければならない。

読書では難解なことをゆっくりと自分の頭の中で咀嚼するプロセスが求められる。

だから読書は最高なのだ。

 

今、最強の思考をインストールすれば、あと60年その思考で生きることができる。

柔軟な考えを持った人は、変化を恐れない。

だからもっともっと新しい知識、情報、仕事が舞い込んでくる。

そうして、さらに差が広がる。



知識が知識を呼ぶ。

多くを知っている人が、多くを知る。

 

それらはもう一生埋まることのない差になる。

 

 

まるでお金のようだが、知識の複利も侮ってはいけないのだ。

 

 

Lose yourself.

 

 

苦手なことのすヽめ 

「得意なことをやるのが一番いい」

 

 

某予備校講師を筆頭に、人生を迷う若者へのアドバイスとして、このような論調が幅をきかせている。

 

ごもっともである。

 

ジャイアンには勉強をやらせるよりも、野球をやらせた方が絶対にいい。

出木杉くんには野球よりも勉強をやらせるべきだ。

 

せっかくの才能を、不得意なことをさせたがままに、棒に振るのは社会全体としても損失といえる。

さらに、苦手なことをやるのは本人も面白くなく、不幸だ。

 

 

しかし、「好きなことがわからない」という昨今の若者の悩み同様、「得意なことがわからない」という人生の悩みも若者の間では多い。

正確には、(人よりも得意なことがあったとして)

「それを得意と決める勇気がない」

ということのような気もするが。

 

 

 話は少し変わって、「好き」の話

人は元来、好きなことが好きなのではなく、得意なことを好きになる傾向あると思う。

「好き(出発)→好き(結果)」

ではなく、

「得意→好き」

 

生まれた瞬間から野球が好きな人なんていない。

たまたま野球をやってみたら得意だった。

「なんかみんな褒めてくれるし、女の子にも人気に慣れるし、これはいい!」

こうして野球を「好き」ということにする人が大半だ。

 

こうして得意なことが好きなことに繋がりやすいのは、得意なことほど自分を認めてもらえるからだ。

人間、誰しもが自分をアピールしたくて必死である。

親、友達、恋人、先生、上司、世間。

僕らが努力をする動機の中にはこの人たちがいる。

 

苦手なことをやっても、所詮平均レベルであり、誰も賞賛してくれない。

得意なことをやれば、みなから抜きん出ることができ、賞賛を得られる。そこに快感が伴い、やがて「好きなこと」となる(する)。

 

話を戻す。

そもそも「得意なこと」とは何か。

それは、人よりも努力せずにできることだと思う。

本人はそこまで努力をしているつもりはないのに、なぜかみんなより上手くできる。

 

素晴らしいことだ。

より少ない労力でより大きな結果を出す方がいいに決まっている。

 

そういう意味でも、「得意なこと」を選んでいこうというスタンスは間違ってないだろう。

 

 

しかし、私はそこに一石を投じる。

 

早いうちから「得意なこと」しかしてこなかったやつは必ず負ける。

 

得意なことというのは、人よりも努力せずに、人よりも大きな結果を出せることだ。

すなわち、本人は無意識にそれが出来てしまい、大して考えていない。

逆になんでみんなは出来ないのか不思議に思うくらい。

 

そうしてある程度、自分の才能に自信を持ちながら、歳を重ねていく。

 

 

 

このようにして手に入れた自信を、俺は脆い自信と呼ぶ。

 

 

そのような自信は一瞬で崩れ去る危険を孕んでいる。

 

一生それで食えるほどの得意レベルならばいい。だがそんな人はほぼいない。

大抵の人の「得意」のレベルは、学校で一番くらいである。

いくら得意なことといえど、実際その得意のレベルなんて大抵はたかがしれているのだ。

県、全国、世界とステージをあげていくとほとんどの人が脱落する。

 

自分より「得意」な人は世の中に腐る程いる。

 

自分よりすごい人が目の前に現れた時、今まで自信にしてきたのものが崩れ落ちる。

それはものすごく脆い。

 

 

  

今、世の中はものすごいスピードで変化している。

 

こんな時代において、

「〇〇大学卒業」

公認会計士

TOEIC〇〇点」

「商社、外銀、広告勤務」

そんなカスみたいな自信は一瞬で崩れさる。

これでは、自信の軸を世間や社会に置いている。

皆がそれを求める。

 

自信の源をコモディティ化すればするほど、それは自信ではなくなっていくことは明白だ。

「俺は息を吸える!」

「俺は日本語を話せる!」

これは素晴らしいことだが、実際、誰もこんなことに自信などもたない。

 

商社の会社の中には、当たり前だが、商社の人しかいない。そんな中であなたはどうするのだろう。

こういった点で困っている人は多い。

高学歴、大企業、自分に自信を持ちたくて手に入れる人は多いけど、残念ながらそこから自信など得られない。

得られたとして、脆い。ひとえに風の前の塵に同じ。

 

 

では、最強の自信はどこから生まれるか。

 

 

それはプロセス、過程の中から生まれる。

 

「高校に入学した時はチームで一番下手くそだった。でも、毎日残って練習した。上手い選手のプレーを全て分析した。監督に何が足りないのかを直談判もした。やれることは全てした。そうしてレギュラーを勝ち取った。」

 

「毎日、5時に起きて、出社前に勉強した。がむしゃらにやっても非効率だと考え、脳の記憶のメカニズム、勉強するための心理学から学んで、勉強をした。2年間続けて、中学レベルからTOEIC900点までいった」

 

肩書きや結果ではない。

このプロセスにこそが唯一無二の自信である。

 

別に最終的にレギュラーになれなくても、TOEIC900点取れなくても自信は絶対に得られる。 

 

自分が一番自分が努力してきたことを知っているから。

 

 

これは、学歴貧富性別問わず全ての人が獲得できる。

 

 

この自信は永遠に役に立つ。

  

人生を自分でコントロールする感覚に近い

人生が上手くいかないのは、「周りのせい、運が悪い」のではなく、俺が自分でなんとかするよという感覚。

スキルと言ったが、これは世間巷で言われている「スキル」のように、これは簡単に手に入るものではない。

試験もないし、参考書、教材もない。それを、測る指標もない。

 

そしてこういう人は、なんとAIの時代が来ようが、無敵なのである。

「また、何か始めればいいだけの話」

まさに、無敵。

これがあれば一生食える

 

 

 

 

 

で、本題。

この能力はがつきやすいのが、「苦手なこと」に取り組んでいるときだ。

苦手なことをできるようにした経験。これが一生役に立つ。

(正確に言うと、苦手なことと言うより、できないことかな。まあそこは今回特別に同義でご勘弁願う)

 

 

人生は想像以上に苦手なことだらけ。実際得意なことなんてほぼない。

凡人なサラリーマン人生の私でさえ、生きていると、想像以上の難題ばかりが降りかかってくる。

 

横の席にいるスーパー高学歴は「どうしよう。どうしよう。」と疲弊している。夜も眠れないみたいだ。僕より頭いいのに。

 

一方、私は不安に押しつぶされそうになりながらも「絶対になんとかなる。今までなんとかなってきたように、これにも必ずやり方、解決に糸口がある」と考える。

実際できるかどうかはこの際重要でない。

 

 

私は自分ができないことばかりをやってきたからだ。

恋愛、スポーツ、勉強、どれも苦手なことばかりだった。

 

だから、全ての苦手なことに対して、努力する必要があった。で、実際なんとかしてきたし、なんとかなることを知った。

 

 

得意なことがなかったこと(茨の道を選択したこと)が逆に功をなしたと今は思えている。

 

 

 

 

 

得意なこと探しのメタゲームに迷走する必要はない。

自分がいいと思う方向に飛び込めばいい。どうせ上手くいかない。

みんな、上手くいく前提で物事を考えすぎだ。

逆。人生は上手くいかないのが当たり前。

こんなにも多くの人が生きていて、なおかつみんな成功を夢見ている。そりゃ競争も厳しいし、全員成功するわけなんてない。

 

俺みたいなクソみたいな凡人は確実に失敗する。

 

だから失敗する前提でことを進める。

 

で、失敗してそこからが俺のターン。自分はどうするのか。どう成長するのか。

小さな世界での得意なことをやっていては、絶対に得られない思考。

 

長い間、苦手なことばかりやってきた自分にとってこう考えるのは、もはや当たり前なのである。

 

 

はっきり言えば別に苦手なことでなくてもいい。そこに無理ゲーがあるのなら「得意なこと」でもいい。

 

 

最後になるが、勘違いして欲しくないのは、「進んで苦手なことに取り組もう!」という話ではない。

得意なこと、いや、好きなことがあるのならまず、それに取り組む。

ただ、それに取り組んだとしても、必ず、上手くいかない。

そんな時に、「実は得意なことではなかった」と苦手なことと分類し、諦めていると一生何も見つからない。何も得られない。

 

得意、苦手の垣根を超えて、無理ゲーをクリアした自信。

 

 

それこそが最強の武器だ。

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Lose yourself.

 

あなたが生きている虚構。世間と価値観が合わない人へ -サピエンス全史感想-

サピエンス全史があまりに面白かったので、今度は原著で読み直している。忘れていたことや見落としていたことがちらほらあった。

気づきをメモするつもりで書いて生きたいと思う。

 

今回、再認識したのは僕らは想像以上に「虚構」を信じて生きているということだ。

原著ではmyth,fiction,mysteryという言葉が使われているが、本記事では総じて虚構という言葉で扱いたいと思う。

 

虚構と耳にして思いつくものはなんだろうか。

 

普通に生活していれば、虚構という言葉を聞くことなんてないし、考えることなんてもっとないだろう。

一回、この虚構という概念を友達に説明してみたのだけれど、納得は得られなかった。(僕の説明力がどうかは置いておく)

 

実は当たり前すぎて気づかないほど、僕らの周りには虚構が存在している。

(虚構が存在しているって面白い笑)

 

お金、法律、国家、会社。

これらは全て虚構だ。信じられないかもしれないが、虚構なのだ。

 

虚構というのは、そのものの本来の価値に関わらず、みんながそれを信じた時に作られる。

 

お金を例にとってみよう。

お金自体に価値はない。10円玉も1万円札も食えないし、武器にもできない。

チンパンジーに1万円札を渡しても一瞬で破られて終わりだ。

僕らの世界で1万円冊が価値があるのは、「お金」という虚構をみんなが信仰しているからだ。

 

法律もそうだ。触ることも食べることもできない。そもそもみたこともない。

でも、みんなが「法律」という虚構を信じているから、それは効果をなす。

 

国家も虚構だ。実際、国と国の間に境界線なんて引いていない。みんながここまでは「国」というふうに決め、それを信じているから国ができる。

国は地球が決めたものではない。人が勝手に土地を線引きし、そこを「国」と信じているだけだ。

 

 

このように僕らは、実在しないものや本来価値のないものを、あたかも実在したり価値があるかのように扱ってきた。

ただ、この虚構があったおかげで、人類はここまで発展できたと言われている。

虚構があるおかげで、見知らぬ人とも協力することができる。同じ虚構を信じていれば、仲間だと判断することができる。

チンパンジーは、この虚構を信じることができない。目の前にないもの想像したり、考えたりすることができないのだ。

 

人はそれができるから、一つの虚構のもと、千人、一万人といった集団を成すことができた。

 

 

というのが虚構についてのざっとした説明だ。

 

では、僕らの身の回りにある、ちょっとした虚構についても考えていきたい。

 

僕が特に共感を覚えたのは、現代はマテリアリズム、ロマンティズムによる虚構が強いということだ。

 

誰だか知らねえが、

 

「幸せな人生とは、お金をたくさん稼ぐこと。休日は買い物に行っていい商品を買うこと。一年のうちには、まとまった長期休暇をとって、スキーに行ったり、海外旅行に行ったりすること。

海外旅行のような、自分の知らない世界を経験することは素晴らしいことであり、新しい自分に出会わせてくれる。

人生は素晴らしい未知の体験をたくさんすることが大切」

 

こんな感じに謳ってきやがる。

 

ほんとに吐き気がする。

 

 

これ自体がすでに虚構なのだ。

別に僕は海外旅行を否定したいわけではない。

この本を読むまで僕自身、人生というものはいかに新しい経験をするかが大切だと思い込んでいた。そして多くの人の楽しみが、スキーや旅行であるように、それが人生の楽しみなんだと思っていた。

 

 

 

でも考えてほしい。

人生はそんなに新しい経験や、エキサイティングなことをしないとダメなのか?

僕は好奇心がわり旺盛な方なので、新しいことが好きだ。

でも、昨今感じるのは、「知らない場所、知らない人に会うことが大切。人生は未知な体験にチャレンジして、新しい自分に出会わなければならない

といった「幸せのモデル」を押し付けてくるのを強く感じる。

 

別に海外旅行じゃなくてもだ。

いい車、いい家、いい家族、そして充実した休日。

 

それらが幸せな人生と思い込んでいる人が多すぎる。

 

多くの人が、どっかの誰かが決めた「幸せのモデル」という虚構を追わされている。

 

 

長い人類史上、「長いホリデイをとって海外にバカンスに行く」という娯楽を覚えたのはここ最近の話だ。

古代ピラミッドの王も、秦国の王も長期休暇で遠くにいくなんてことはしていない。

(彼らはでかい墓を立てることが幸せだと思っていた)

だからこれらは別に人間の本能的な幸せではないのだ。

 

僕らが信じている「幸せな人生」

それは主に、広告会社やメディアが作り上げたもの(虚構)が多い。

 

まあ、その人の問題なのだからそんな虚構に従って生きるのも全然ありだと思う。

 ある種、そっちのほうが幸せなのかもしれない。

 

しかし、僕が言いたいのは、それらを虚構と知ることで救われる人もいる。

現に僕が救われた。

 

 

僕の休日の過ごし方は、世間が想像する「充実した休日」とはかなり程遠い。

大抵は、図書館で勉強しているか、部屋にこもって本を読んでいる。

あとはアマゾンプライムで映画をちらほら。

 

これは僕が好きでやっている。

でも、これを人前で言うと「つまんねえやつ」と思われる。

だからあまり言わないようにしている。(勤め人をしていて、つまんねえやつと思われて得なことはあまりない。)

特に初対面の自己紹介や、上司との雑談で、趣味や休日の話はすごい億劫に感じる。

 

キャラを誤解される。オタクと言うか、ガリ勉なキャラと思われる。普段、全くもってそんなキャラでない僕は、そう言うことを言うと話がややこしくなる。

まあめんどくさいのだ。

 

あとほとんどの人にとって、読書とか、勉強はありえないみたいだ。

「せっかくの休日に勉強とかアホなの?」

と言わんばかりの表情である。

 

そんなの無視しておけばいいのだが、「休日充実してた?」と言う聞き方をされると、実際、以前まで少し辛い思いをしていた。

『へいへい、あなたが言う「充実」はしてませんでしたよ』

どこか拗ねていた部分もある。

世間の言う「幸せな人生」にそぐわないから、「自分は本当に幸せなんだろうか。」と疑っていたりもした。

周りにそんな人がいなかったから、自信もなかった。

心の中だけとはいえ、異端でいることは辛かった。

 

 

世間の言う生き方をトライしていた時期もある。運動は苦手でないので、スノボーやゴルフもやったし、カラオケや映画を趣味にしようとしたりもした。

 

でも、どれも全然面白くないのである。

一年に何度かならいいかもしれないが、僕は人生をかけてやりたいとは一つも思わない。

 

旅行とかも行きたいけれど、なんか一定期間を旅行のためという目標を持って働く同僚とか見てて信じられなかった。

「そんなに旅行いきたい?」

ずっとそう思っていた。

 

 

しかし、今は自信をもって言える。

世間が善としているものに振り回される必要はない。多くのもは誰かが作り上げた虚構だ。所詮虚構である以上、その虚構が世の中の全てではない。

その虚構を信じる人にとって、それが初めて大きな価値観となる。

 

しかし、ここで注意したいのは、自分の価値観に合わないやつをみて

「虚構に踊らされてバカだな」

と嘲笑するのはよろしくない。

 

人は皆、虚構を生きている。どの虚構を生きるかの問題だ。

あなたからすればバカだと思える虚構も、その人が(たとえ虚構だと気づいてなかったとしても)幸せを感じているのならそれでいい。

 

皮肉なことに、現実を捻じ曲げ、虚構に盲目的な人の方が幸せそうに見える人は多い。

 

だが、あなたはあなたの信じた道を進めばいい。

素晴らしいことに、なにを信じるかは自分で選ぶことができる。

 

だから、僕らは自分がマジョリティとは違うからといって気にやむ必要はない。

親や先生、テレビがいってくることは虚構だ。

 

自分の信念でさえも、誰かの影響を受けた虚構だ。

 

だからこそ、どうせ虚構を生きるのなら、自分の好きな虚構を選択したらいい。

 

 

 

Lose yourself.

ブログを1ヶ月続けてみて思ったこと

1ヶ月間と決めて、この1ヶ月毎日ブログを更新してきた。

「継続は力なり」というが、改めて継続の難しさを思い知った。(1ヶ月程度ではあるが)

 

正直言って、かなりしんどかった。

されど1ヶ月である。

1記事につき、ノルマは1000文字以上。

 

ブログを書くこと自体は苦痛ではないが、毎日となると、なんともネタがない。

まあネタがない。

そりゃそうだろうよ。平日は家と会社の往復。休日も引きこもって読書。

 

Twitterなりnewspicksなり日経新聞なり情報源は山のようにある。だからネタがないなんていうのは、言い訳もいいところではあるのは認める。

 

だけれど、途中から書いていてあることを思うようになった。

 

自分がわからないことを書いてもカス。

 

自分が身を持って体感したことじゃないと、いい文章にならない。

適当に調べて、新しい事実を発見して、それをずらずらと並べるだけでもブログは書ける。

けれど、そこには感情が乗らない。

感情がないということで、その人特有の表現もなくなり、臨場感に欠ける。

 

読み手が引き込まれない。

第一、書いていて一つも面白くない。

 

 

自分が生きていて感じたこと。みんなに伝えたい!と思ったことを書くのがいいと思った。記事数や文字数を稼ぐために書くのは、なんだか儚かった。

 

 

逆にいうと、ニュースサイトや読書でいくら博識になっても、あまり意味がないということを学べた。

それを実践して、自分の中に落とし込めた時、初めて意味を成すということがわかった。たまに読書を一つもしない成功者の人がいるけれど、なんとなく理解できた。

 

人生の勉強は、ものを読んだり、書いたりするだけではないのだ。

勉強というと、机に座ってカリカリと問題集を進めるイメージが植えつけられているが、それは「お勉強」だ。

 

日常の中にブログネタを探すようになると、全ての出来事が勉強になるように思えた。

 

逆に、勉強するためには、やったことのないことにチャレンジしていく必要があると思った。

 

 

毎日朝6時に起きて、仕事前にブログを書く。たった1ヶ月だけれどきつかった。

いわゆるプロブロガーの人はどんだけすごいんだよ。

プロブロガーじゃなくても、毎日更新している人ってどうなってんだよ。

これまでの人生のインプット量が尋常じゃねえんだろうな。

 

まあ机に座ってカリカリお勉強のみをしてきた人には無理な話だ。

人生のネタを増やすためには、ある程度横道に逸れることが必要だなと感じた。

 

とりあえず、1ヶ月続けることができた自分を褒めてやりたい。

 

考えがコロコロ変わる僕に、批判してくる人たち

「前と言っていたこと全然違うじゃん」

 

知り合いの中で、このセリフを言われたことがあるランキング一位はおそらく僕だ。

けっこー昔から言われることが多かったが、社会人になり、そう言われる回数は増している。

 

昔は、自分が言ったことにかなり固執していた。

数日前の僕「SNSとかやらねえよ。ゴミだろ」

数日後の僕『やべえTwitter超おもしれえ.....でもみんなの前で言えねえ.....』

 

今はもうそんなことクソどうでもいいと思ってる。

 

 

 

えてして、人はなぜ一貫性を好むのか。

 

一貫性のある人間が信頼されるのは世の常だ。

確かに、昨日言っていたことと、今日言っていることが違っては相手も困る。

仕事や組織を運営する上で、言っていることがコロコロ変わっていると、とても成り立たないし、それにより信用が得られない。

 

 

僕は考えが、コロコロ変わるけれど、それにより他人に迷惑をかけることはしていない。

自分の考えを変えているだけで、約束や取り決めを破ることは絶対にしないと決めている。

 

一貫性がない例で嫌われるのは、お互いで取り決めたことまで変えるからだ。

 

 

強い人間なら、そんなこと気にせず、いいと思った瞬間、行動も変えるだろう。

 

 

 

そもそも、考えがコロコロ変わる僕のような人種は、変えているつもりなんてない。

学んでいるだけだ。

いいものがあったら、そっちに飛びつくのは当たり前。

 

 

考えや生き方が、過去の僕と違うことに対して批判する人は何が面白くないのだろうか。

 

逆に、世の中の多くの人が、一貫性を持つことに拘りすぎている。

過去の自分が言ったことに縛られている。

 

 

人は、物事を判断するとき、判断の基準として一貫性を使う。

そうやって選択に迫られた時は、昨日の自分が言っていたこと選ぶ。

 

僕からすれば、それは怠惰極まりないことだと思う。

なぜならそういう人は、頭で考える必要がない。

思考停止で昨日までの自分が選んできた道を選べばいいのだから。

 

過去に「男に二言はない」みたいなものを勘違いして受け取り、そこに美徳すら感じ取っているように見える連中さえもいた。

たとえ間違っていても、言ったことを貫くことが正義だ!みたいな。

 

 

僕はまだ若造。そんでもって人生の経験もまだまだ浅い。この時点で、自分の生き方を決めるつもりは毛頭ない。

もちろん、現時点での信念というのはいつだってある。

ある程度の期間、一つの信念を貫くことことの意義や必要性もわかっている。

 

でも一貫性(一つの信念に固執すること)を棚に上げ、学ぶことや過去の自分を否定することを放棄した人たちがあまりにも多すぎる。

 

 

まあなんというか、彼らの判断基準(思想・信念・信仰)は自分の経験でしかないからそうこり固まるのも仕方ないかなと思うとことはある。

自分の人生と学校の恩師(笑)と親、兄弟、あとはテレビの有名人?からしか情報が入ってこないような人たちだ。

そりゃバイアスもかかるにかかるだろうよ。

 

一方、読書する人や、お金をかけてまで情報を取りにいかんとする人は、常に自分の思考がアップデートされる。だってそうだもん。

何かを学べば、自分の考えがいかに浅はかであるかを過去の巨匠達にいつも思い知らされる。

 

「この前と言っていたこと違うじゃーん」と頭ごなしに否定してくるやつと俺は関わりたくない。

 

 

考えなんていいと思ったらすぐに変えろ。

過去に言ったことなんてガチでクソどうでもいい。

 

 

Lose yourself.

 

 

幸せは学歴ではなく、生き方で決まる

僕の会社には高学歴の人とがうじゃうじゃといる。

彼らが受験勉強時代に費やした努力は計り知れないものがあるだろう。

 

僕はずっと、いい大学を出るほど、スポーツ等の大会で優勝するほど、人生は幸せなものになると思って生きてきた。

ところが、彼らを見ていて、そうではないことに気がついた。

 

いい大学に入ることが、その後の人生の幸せを約束してくれるわけではない。

 

 

僕は、善く生きるためには、能力よりも生き方が大切だと思っている。

人生を楽しくするのは、学び続ける姿勢だ。

学ぶことをやめた瞬間、人生は一気に暇になる。

 

多くの人は就職すると学ぶことをやめる。何か新しいこと、難しいことに挑戦するのをやめる。

もう自分はそんな時期ではないと思っているのだろうか。

ほとんどの人は、人生で何をすればいいかわからない。仕事しかなのだ。

それもそうだ。今まで言われたことをやるのが優秀だった人材だ。

 

少しでも面白そうだと思えばすぐにつまみ食いし、あちこち手を出してきた僕に、好奇心と言う点で勝てるはずがない。

 

あとは会社で40年働くしかない彼らにとって、会社が全てだ。

「会社で嫌われたら終わり」

「失敗してできないやつと思われたら終わり」

毎日ビクビクしながら仕事をしている。自ずと失敗する回数を減らそうと、未知なものへの挑戦する回数は減る。

 

一生懸命勉強した先にあるのが、毎日ビクビクしながら生きることなのだろうか。

死んだ顔をしながら毎日仕事をするためにお勉強を頑張ったのか?

休日も仕事のことを考え憂鬱になるために頑張ったのか?

 

 

一方低学歴な僕は、失敗なんてちっとも大したことないと思うし、人生は努力次第でどこからだったやり直すことができると思っている。

 

 

努力次第で、人はいつでも成長できると思っている人は予想以上に少ない。

皆、最後の学校の学歴で人生が決まると思っている。

 

人間の力は先天的もので決まっているという考えに似ている。固定思考だ。


実際、学歴決まっていようと、もっと言えば遺伝レベルで決まっていようと、そんなものはどうだっていい。

努力次第で人は変われると自分が思って行動すれば、そこには行動という結果が確実に残る。

 

僕は誰だってどの立場にいようと、人生を幸せにすることはできると思っている。


全ては生き方次第だ。

 

 

どんなに下にいようとも、自分で決めた努力を継続すること。大切なのは、昨日の自分よりレベルアップすることだ。

 

 

 

できない理由は山ほどある。できる理由を探すんだ。

現に俺は大学受験の勉強を一つもしていない、社会人だ。

英語なんて皆無に等しい。

 

それでも、英語の勉強をやると決めた。

決めてから毎日勉強した。

結果、TOEICで800点後半を取ることができた。

 

会社の人はあり得ないという顔をした。

からしたらそこまでのリアクションがあり得ないと思った。

英語は順序たてて、正しい勉強をやれば確実に点数が伸びる。

でも学校の英語のカリキュラム、学校での勉強法が世の中の勉強法だと思っている人たちにとって、留学なしにTOEICの英語聞き取れるのはあり得ないことなのだ。


 

逆境や困難に打ち勝とうとする姿勢。

人生を自分の手で操作しようとする姿勢がその人の幸せを決める。

一回、人生は努力次第でなんとでもなると言う感覚が身につけば、あとは楽だ。どんな困難が待ち受けていようと、また努力すればいいだけの話。

そのあとには成長が待っている。

 

こんな楽しいゲームは他にない。



学歴や境遇で悩む前に、自分の生き方を考えてみてはどうだろうか。 



Lose yourself.