LoseYourSelf

低学歴。非モテ。俺たちの逆転劇はここから始まる。英語と読書、恋愛、そして人生を。

苦手なことのすヽめ 

「得意なことをやるのが一番いい」

 

 

某予備校講師を筆頭に、人生を迷う若者へのアドバイスとして、このような論調が幅をきかせている。

 

ごもっともである。

 

ジャイアンには勉強をやらせるよりも、野球をやらせた方が絶対にいい。

出木杉くんには野球よりも勉強をやらせるべきだ。

 

せっかくの才能を、不得意なことをさせたがままに、棒に振るのは社会全体としても損失といえる。

さらに、苦手なことをやるのは本人も面白くなく、不幸だ。

 

 

しかし、「好きなことがわからない」という昨今の若者の悩み同様、「得意なことがわからない」という人生の悩みも若者の間では多い。

正確には、(人よりも得意なことがあったとして)

「それを得意と決める勇気がない」

ということのような気もするが。

 

 

 話は少し変わって、「好き」の話

人は元来、好きなことが好きなのではなく、得意なことを好きになる傾向あると思う。

「好き(出発)→好き(結果)」

ではなく、

「得意→好き」

 

生まれた瞬間から野球が好きな人なんていない。

たまたま野球をやってみたら得意だった。

「なんかみんな褒めてくれるし、女の子にも人気に慣れるし、これはいい!」

こうして野球を「好き」ということにする人が大半だ。

 

こうして得意なことが好きなことに繋がりやすいのは、得意なことほど自分を認めてもらえるからだ。

人間、誰しもが自分をアピールしたくて必死である。

親、友達、恋人、先生、上司、世間。

僕らが努力をする動機の中にはこの人たちがいる。

 

苦手なことをやっても、所詮平均レベルであり、誰も賞賛してくれない。

得意なことをやれば、みなから抜きん出ることができ、賞賛を得られる。そこに快感が伴い、やがて「好きなこと」となる(する)。

 

話を戻す。

そもそも「得意なこと」とは何か。

それは、人よりも努力せずにできることだと思う。

本人はそこまで努力をしているつもりはないのに、なぜかみんなより上手くできる。

 

素晴らしいことだ。

より少ない労力でより大きな結果を出す方がいいに決まっている。

 

そういう意味でも、「得意なこと」を選んでいこうというスタンスは間違ってないだろう。

 

 

しかし、私はそこに一石を投じる。

 

早いうちから「得意なこと」しかしてこなかったやつは必ず負ける。

 

得意なことというのは、人よりも努力せずに、人よりも大きな結果を出せることだ。

すなわち、本人は無意識にそれが出来てしまい、大して考えていない。

逆になんでみんなは出来ないのか不思議に思うくらい。

 

そうしてある程度、自分の才能に自信を持ちながら、歳を重ねていく。

 

 

 

このようにして手に入れた自信を、俺は脆い自信と呼ぶ。

 

 

そのような自信は一瞬で崩れ去る危険を孕んでいる。

 

一生それで食えるほどの得意レベルならばいい。だがそんな人はほぼいない。

大抵の人の「得意」のレベルは、学校で一番くらいである。

いくら得意なことといえど、実際その得意のレベルなんて大抵はたかがしれているのだ。

県、全国、世界とステージをあげていくとほとんどの人が脱落する。

 

自分より「得意」な人は世の中に腐る程いる。

 

自分よりすごい人が目の前に現れた時、今まで自信にしてきたのものが崩れ落ちる。

それはものすごく脆い。

 

 

  

今、世の中はものすごいスピードで変化している。

 

こんな時代において、

「〇〇大学卒業」

公認会計士

TOEIC〇〇点」

「商社、外銀、広告勤務」

そんなカスみたいな自信は一瞬で崩れさる。

これでは、自信の軸を世間や社会に置いている。

皆がそれを求める。

 

自信の源をコモディティ化すればするほど、それは自信ではなくなっていくことは明白だ。

「俺は息を吸える!」

「俺は日本語を話せる!」

これは素晴らしいことだが、実際、誰もこんなことに自信などもたない。

 

商社の会社の中には、当たり前だが、商社の人しかいない。そんな中であなたはどうするのだろう。

こういった点で困っている人は多い。

高学歴、大企業、自分に自信を持ちたくて手に入れる人は多いけど、残念ながらそこから自信など得られない。

得られたとして、脆い。ひとえに風の前の塵に同じ。

 

 

では、最強の自信はどこから生まれるか。

 

 

それはプロセス、過程の中から生まれる。

 

「高校に入学した時はチームで一番下手くそだった。でも、毎日残って練習した。上手い選手のプレーを全て分析した。監督に何が足りないのかを直談判もした。やれることは全てした。そうしてレギュラーを勝ち取った。」

 

「毎日、5時に起きて、出社前に勉強した。がむしゃらにやっても非効率だと考え、脳の記憶のメカニズム、勉強するための心理学から学んで、勉強をした。2年間続けて、中学レベルからTOEIC900点までいった」

 

肩書きや結果ではない。

このプロセスにこそが唯一無二の自信である。

 

別に最終的にレギュラーになれなくても、TOEIC900点取れなくても自信は絶対に得られる。 

 

自分が一番自分が努力してきたことを知っているから。

 

 

これは、学歴貧富性別問わず全ての人が獲得できる。

 

 

この自信は永遠に役に立つ。

  

人生を自分でコントロールする感覚に近い

人生が上手くいかないのは、「周りのせい、運が悪い」のではなく、俺が自分でなんとかするよという感覚。

スキルと言ったが、これは世間巷で言われている「スキル」のように、これは簡単に手に入るものではない。

試験もないし、参考書、教材もない。それを、測る指標もない。

 

そしてこういう人は、なんとAIの時代が来ようが、無敵なのである。

「また、何か始めればいいだけの話」

まさに、無敵。

これがあれば一生食える

 

 

 

 

 

で、本題。

この能力はがつきやすいのが、「苦手なこと」に取り組んでいるときだ。

苦手なことをできるようにした経験。これが一生役に立つ。

(正確に言うと、苦手なことと言うより、できないことかな。まあそこは今回特別に同義でご勘弁願う)

 

 

人生は想像以上に苦手なことだらけ。実際得意なことなんてほぼない。

凡人なサラリーマン人生の私でさえ、生きていると、想像以上の難題ばかりが降りかかってくる。

 

横の席にいるスーパー高学歴は「どうしよう。どうしよう。」と疲弊している。夜も眠れないみたいだ。僕より頭いいのに。

 

一方、私は不安に押しつぶされそうになりながらも「絶対になんとかなる。今までなんとかなってきたように、これにも必ずやり方、解決に糸口がある」と考える。

実際できるかどうかはこの際重要でない。

 

 

私は自分ができないことばかりをやってきたからだ。

恋愛、スポーツ、勉強、どれも苦手なことばかりだった。

 

だから、全ての苦手なことに対して、努力する必要があった。で、実際なんとかしてきたし、なんとかなることを知った。

 

 

得意なことがなかったこと(茨の道を選択したこと)が逆に功をなしたと今は思えている。

 

 

 

 

 

得意なこと探しのメタゲームに迷走する必要はない。

自分がいいと思う方向に飛び込めばいい。どうせ上手くいかない。

みんな、上手くいく前提で物事を考えすぎだ。

逆。人生は上手くいかないのが当たり前。

こんなにも多くの人が生きていて、なおかつみんな成功を夢見ている。そりゃ競争も厳しいし、全員成功するわけなんてない。

 

俺みたいなクソみたいな凡人は確実に失敗する。

 

だから失敗する前提でことを進める。

 

で、失敗してそこからが俺のターン。自分はどうするのか。どう成長するのか。

小さな世界での得意なことをやっていては、絶対に得られない思考。

 

長い間、苦手なことばかりやってきた自分にとってこう考えるのは、もはや当たり前なのである。

 

 

はっきり言えば別に苦手なことでなくてもいい。そこに無理ゲーがあるのなら「得意なこと」でもいい。

 

 

最後になるが、勘違いして欲しくないのは、「進んで苦手なことに取り組もう!」という話ではない。

得意なこと、いや、好きなことがあるのならまず、それに取り組む。

ただ、それに取り組んだとしても、必ず、上手くいかない。

そんな時に、「実は得意なことではなかった」と苦手なことと分類し、諦めていると一生何も見つからない。何も得られない。

 

得意、苦手の垣根を超えて、無理ゲーをクリアした自信。

 

 

それこそが最強の武器だ。

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Lose yourself.