TOEIC・英語学習は「何をするか」よりも「何をしないか」だ!
僕らにはやりたいことがたくさんある。
仕事でキャリアを上げるための勉強、理想の彼女を手に入れるための恋愛活動、山積みにされた積ん読リスト、友人との飲み、ブログ執筆、筋トレ、その他諸々。
やりたいことがありすぎる。
さらにそれに加えて、スマートフォンをチェックしなければならない。
毎秒更新されるtwitterやyoutubeは永遠に眺めることができる。(自由時間を減らしている一番の的はスマホだ。)
やりたいことがありすぎて時間がない。
僕はどれだって一流になりたい。
仕事では出世したいし、副業の方ももっと頑張りたい。大好きな本を読んで知識も増やしたい。
とにかくやりたいことが多すぎる。
みんなもそうだろう。やりたいことがたくさんあると思う。
「仕事をしながら、勉強してTOEICの点数をあげたい。でも、趣味のゴルフは辞められない。彼女のことをほっておくことは出来ない。毎日のtwitterも楽しみの一つだ。」
実際、こんなサラリーマンは多い。
僕もこんな感じだった。
「いかにして時間を効率的に使うか」
「スキマ時間をいかに有効活用するか」
成功の鍵はそこにあると勘違いしていた。
このように考えているのなら、そんな考え今すぐ捨てたほうがいい。
断言する。
どれも一流になるのは無理だ。
複数の事を進めるのは不可能なんだ。
当たり前の話だ。時間は限られている。筋トレをすれば、その時間は勉強していない時間になる。
一応、同時に進めることはできることはできる。
しかしそれでは成長が遅すぎる。結局どれも中途半端でやめてしまう可能性が高い。
だサラリーマンの場合、やはり仕事が生活の6〜7割りを占める。あとの余った時間をいくつものやりたいことに当てるのは得策ではない。
そこで僕が考えた最速で結果を出すために大切なのは
やらないことを決めることだ
みんなやることが多すぎる。時間は限られているのだ。スマホをいじれば勉強はできない。彼女と会えば、筋トレはできない。
全てをやろうとしてはいけない。優先順位を決めないと全てが中途半端に終わる。
僕は1年をスパンにしてやる事を絞ってきた。
昨年は英語学習のみだ。プライベートは7〜8割英語の勉強をした。
そのためにたくさんのものを捨てた。
・LINEの通知も仕事関係以外はオフにした
・読書もやめた
・テレビ、ゲームを捨てた
・iPhoneの曲を全て英語リスニングにした
・休日に予定を入れるのをやめた
ここまでやった。僕はいかにして効率的に英語学習をやるかなんて考えなかった。
いかに、英語学習をやらざるをえない状況を作るかを考えた。
人間が一番苦痛を感じるのは退屈な時。これを生かした。
退屈になれば勝手に勉強するのだ。だってそれしかやることがないのだから笑
通勤も英語を聴かざるをえない状況にした。iPhoneに曲が入ってない笑
本当に退屈だったけど、それ以外聴くものがなかった。読書も全て英語の音読教材となってしまった。
努力が続けられないのはあたなの意志が弱いからではない。
人間は、何をやろうかと考えた時、必ず楽な方を選択する。僕の場合、twitterをみてしまう。楽な事をしたいという欲求が人類を、テクノロジーをここまで発達させてきた。だがこの欲求は英語学習にとっては邪魔だ。
「勉強するか、しないか」こんな選択で貴重な意志力を使うのはナンセンスだ。
意志力は全て、集中のために使おう。
(意志力の話)
キーは、もはやそれ以外の選択肢をなくすこと。これが最強の戦略。
この生活を一年続けて僕のTOEICの点数は500点以上がった。(もともと低すぎw)
自然と勉強時間も生まれる。
頑張って欲しい。
Lose Yourself.
考えるために書く。書くために考えるのではない。
文章を書くということは、考えたことを書くという行為だと思っていた。
考えてから書く。何か考えがあるから、人はそれを文章にする。
「考える→書く」
当たり前すぎて、意識したこともない。
しかし文章をかく一番のメリットは考えるために書くことにある。
「書く→考える」なのだ。
「書く」という行為は、自分の頭の中にある思いを言葉に翻訳する作業だ。僕らが日々考えていることというのは、意外にもはっきりしていない。頭の中に駆け巡っているこのぼんやりとした思考や感情。
これを文字にするという作業は、とても難しい。この頭の中のカオスを文字にするという行為は、「翻訳する」という行為と同じだ。今の自分が感じていることを表現するには、どの言葉をチョイスするのが一番適切なのか。
また文章にする際、そこには、論理性の確立や、思考の整理など、様々な要素も絡んでくる。
この「書く」という行為を通して、僕らは初めて自分を知り、考えることができるのだ。
文字にすることで、自らの思考を客観的に観察することもできる。
私が「書く」ことを続ける理由の一つは、インプットしたことを身に付けたいからだ。
勉強もそうだが、本や、体験を通して、学んだことを憶える(理解する)一番の方法は、人に教える(伝える)ことだ。
人に教えるということは、初心者でもわかるように、より簡単な自分の言葉で伝えなければならない。
完璧に理解していない物事を、自分の言葉で、なおかつより簡単な単語を用いて説明することはできない。
学んだことをわかりやすいように自分の言葉に言い換える。
書くという行為はやはり、「翻訳」することなのだ。
僕も読書で学んだことをブログで書こうとするのだが、なかなかスラスラ書けない。
本を一冊読めば、著者がなんとなく言わんとすることはわかる。ただ、いざ文章にすると思うように書けない。
「すごくいい本だった」という感想しかないのだ。
この「すごくいい」というぼんやりとした気持ちに言葉を与えていかなけらばならない。
何が、どんな風にいい本だったのか。
物語の内容、魅力、欠点、ポイントを自分の中で整理、再構築してアウトプットしなければならない。
だから、「書く」というアウトプットの行為を通して、インプットしたことに対する理解がより深まる。
ブログや、日記を記すメリットはここにある。
自分の感情や思いに文字を与える。文字を通して客観的に観察することができる。
自分の理解度がよくわかるし、考えていることも整理される。
怒ったり、悲しかったりして自分の感情が不安定な時も日記を通して文字にしてみるといい。
頭の中のカオスに言葉を与えてやると、自分を客観的に見ることが出来、自然と気持ちも和らいでいく。
私は、考えるために、全ての人に書くという行為を進めたい。
出典
成功者を追いかけても不幸が待っている -本田圭佑 カフェサバイブを観て思うこと-
https://www.amazon.co.jp/KEISUKE-HONDA-CAFE-SURVIVE/dp/B076B7BVFD
あなたが尊敬する人物は誰だろうか。
僕は本田圭佑だ。
彼の物事に対する捉え方にはいつも驚かされる。簡単に言えば「ポジティブ」とか「プラス思考」といった類のものだが、そんな沙汰ではない。
僕は上手くいかずダメになりそうな時は、いつも本田の「プロフェッショナル仕事の流儀」を観て勇気をもらってきた。
先日、アマゾンがプライムビデオで本田の番組を制作することを知り、とても楽しみにしていた。
番組の内容は、幅広い分野からビジネスパーソンをお呼びし、本田とマンツーマンで対談するといったものであった。
第5話まで観させていただいた。
率直な感想として、今後もう観ることはないだろう。
特に第5話を観てそう思った。
本田と若い起業家が、これからお互いのビジネスや夢について語り合うのだが、とてもついていける内容ではなかった。
「社会貢献」
「世界を変える」
「恵まれない人たちのために」
ここまでは成功者がよく言うことなのでいつものように聞いていた。
ところが、
「今の日本人の起業家は、自分のお金のために働いている人がまだまだ多い。もっと世界を変えてやろうといった人が出てこないと日本はやばい」
この考えにはとてもじゃないが賛同できなかった。それは僕が凡人だからなのか。
終始彼らの話を聞いていて、僕とは違う世界に住んでいるように感じた。
ちなみに、スポーツをやっていた頃は本田のことを別世界の住人と感じたことは一度もなかった。いつも参考にさせてもらっていたし、恐縮ながら勝手に張り合っていた。
しかし今回思ったのは、僕ら凡人のことの視点が一切ない。
これまで僕だったら
「本田がこう言っている!俺も負けてられない!」
と躍起になっていたと思う。
しかし僕も変わったのか、平凡な人間として、平凡な人に囲まれて生きる僕にとって、人生は夢を追うことが全てではないと思うようになった。
なんだか、
「みんなに押し付けんなよ。みんもそれぞれ頑張ってんだよ」
という気持ちになった。
冷静に考えてみるとアスリート(を目指していた)時代の僕は、本田を含めた「世の中でトップを走る人たち」を崇拝し過ぎていた。
「幸せは成功にのみある」
「成功こそが全て」
ずっと成功者の言っていることが全てだと思い込んでいた。
夢を追いかけていない友達、会社で安定を求めてのんきに働いているおっさん、家でダラダラとテレビばかり観ている家族を
「所詮成功しなかった人たち」と下に見ていた。
成功者ばかりを追いかけ、自分を比べては「まだまだ足りない」と現実の自分に失望し、焦り、自己嫌悪になることが多かった。
得てして僕は勝手に不幸を味わっていた。
上には必ず上がいる。
そんな勝負の世界では、「現状に満足しないこと」が美徳とされている。
僕も「今の自分はまだまだ」と思うことが成長への一番の近道だと思っていた。
実際、一流のプレーヤーと比べると自分はまだまだだった。
でも、僕は必要以上に「自分はまだまだダメだ」と思いこんでいた。人から見れば喜べばいいのに、勝手に不幸になっていた。
「自分はまだまだ」と思う人に、まだまだな人はあまりいない。勝手に苦しんでいる人が多い。
この思考は、自分を比べる指標を他者に依存している。自分よりも上の他者というのは、永遠に存在する。だから成長しても、自分と比較しちっとも喜べなくなる。
そもそも野球をやる喜びは、プロ野球選手になることじゃなく、昨日できなかったことができるようになることにある。
自分ができなかったプレーができるようになった時は素直に喜べばいい。それは、周りからすれば「出来て当たり前のプレー」だったとしてもだ。
大切なのは昨日の自分と比べることであり、自分が決めた目標を達成することだ。
僕はこういう喜びを、存分に味わうことなく育ってきた。
昨日の自分より成長したとしても、他者が期待するレベル(プロとか全国とか)でなければ自分はクソだった思っていた。正直言うと、ずっと競技が楽しくなかった。
人よりも高いパフォーマンスであっても、人生の満足度はずっと低いものであった。
僕らは、上を見上げることで、感じる必要のない不幸を感じている。
僕の今の生活はいたって幸せなはずだ。それなりの給料をいただいているし、会社の同僚にも恵まれている。プライベートでは友達もいる。
でも、世界のトップのような上を見上げると、「俺の人生これでいいんだろうか?」と感じてしまう。
はっきり言って今のグローバルな時代に、トップを走ることは不可能なんだ。僕より野球が上手い人なんて死ぬほどいるし、勉強ができる人も死ぬほどいる。
「これからの時代はITだ!」なんて聞いてプログラミングを学んでも、すでにトップに立つことはできない。成功を求めて、無理やり何か始めてもトップに立つことはできない。そして、幸せになることもできない。
それは他人が決めた幸せを生きているからだ。
それでは、一生幸せにならない。
例えば、世間が求めるものといえば
「これからは英語は当たり前のスキル」
「これからはプログラミングの時代」
「日本の大学は意味がない。海外の大学に行くべき」
こんなものを求めて走っても、キリがないから全てを掴むのは無理なのである。
英語を身につけたとしても、世間は次はプログラミングを求める。できた方がいいことなんて山のようにある。
自分を知らないと、際限のない努力が待っている。まさしくラットレースだ。
僕はずっとこのことに気づかないで生きてきた。
自分にとっての幸せを考えずに、とりあえず「人から一番幸せそうに思われているもの」を追いかけようとしていた。他人の指標である。
他人の指標にはキリがない。大学は東大、ハーバード、MIT、就職先は外資系証券、総合商社、広告代理店が最大として求められる。
そこを目指すのは無理だ。
大切なのは、他人が求める(決める)ことを頑張るのではなく、自分の中で満足を決めることだ。これならキリがある。
僕は本田のように「世界を変えたい」なんて思っていない。
俺は単純に副業で10万を稼げて、可愛い彼女がいて、将来は独立できればそれは最高に満足だ。
これを決めてから、少しの成長が満足できるようになった。目標が無理難題ではないので、達成に近づいているの感覚もある。何より、プロセスを楽しめている。
プロセスを楽しめずに成功はない。
と言うより、プロセスを楽しめていること自体がもはや成功だ。
そんな奴は勝手に成功する。
野心家の方はそんな小さな満足は嫌だ言うだろう。
でも、世の中の人は皆、小さな満足で十分なんだよ。野心家から見れば小さいかもしれないが、その人にとって見れば大事なことなんだ。
満足は人それぞれ違う。
社会貢献のような高尚な目標を掲げてもらっても構わないが、僕らはまず、自分の満足を追いかけるべきだと思う。
だから、テレビやインターネットに登場するすごい人たちを見て、惑わされる必要はない。自分と比べて不幸や惨めさを感じる必要もない。
みんなそれぞれの人生を生きているのだから。
今目の前にあることを頑張ればいい。それはあなたがとってのワールドカップなんだ。
その世界でのワールドカップに満足できなくなったら、上のステージにいけばいい。
Lose yourself.
体験に勝る読書なし
僕は読書が大好きだ。僕の知らないことをたくさん教えてくれるし、困った時に知恵を貸してくれる。僕にとって読書は人生の困難を乗り越えるのに読書は欠かせないものだ。
これまでにも何冊もの本を購入してきたし、人生で一番お金を使ったのも本だ。特に自己啓発本やハウツー本、ビジネス書。これらは一通り読み漁ってきた。
そんな僕が最近思うことがある。
「体験した方が早くね?」
最近、恋愛、仕事において行動派にシフトした僕は読書家よりも行動家の方が成長スピードが早いことに気がついた。(ここでいう読書家という定義に語弊があるのは許して欲しい)
完璧に調べてから、ようやく行動するという読書家のスタンス。これは「どこかに成功する方法は必ずあって、それを見つけるまでやらない」というスタンスだ。
これまでの僕は、仕事、恋愛、スポーツetcを本で学んでから行動に移すというまさに典型的な読書家のパターンを繰り返してきた。
「読書:行動」の比率で言えば5:5か6:4で、本で学んだことを行動で試してみるというやり方だった。
この生き方でも割とうまくやってきたとは思う。勉強、仕事、恋愛、スポーツetc、どれも人よりも下手なところから始まったが、本で調べて研究してやってきた。自分でもなんとかうまく乗り越えてきたつもりだ。
だが最近思うのである。
このやり方は成長が遅い。
そして、結局やらないことが多い。
失敗を恐れてガチガチに固めてから、本番に臨むこのやり方は失敗しないためにはいい。しかし、完璧を目指すことには際限がないのだ。やろうと思えばどこまででもやってしまう。ものすごい時間がかかる。
そして読書では今の自分に備わっているものと足りないものが判断できない。フィードバックがない。
その結果、最低限の武器で勝てるはずの相手にも、最高級の武器を手に入れてから挑もうとしてしまう。不必要な準備に時間をかけてしまう。最高級の武器がいるかどうかは、戦ってみないとわからないのだ。
なおかつ読書は、全てが記憶に残るわけではないので、時にものすごく非効率なのである。今必要ない情報も、いつか必要になるかもしれないからと言って吸収しようとするのは無駄だ。そんな知識はほとんど記憶に残らない。
僕たちが生きていく上で大切なのは、学びを自らの血肉とすることだ。
「1次情報」とも呼ばれる「体験」そのものは成長のスピードが圧倒的に早い。なぜなら自ら経験し、そこには感情が伴っているからだ。自分が実際に失敗したことには恥じらい、悲しみ、悔しさといった強烈な感情が残っている。
僕は学生時代の部活での失敗を教訓として今でも覚えている。あの悔しさから得た学びを一生忘れることはない。
本を読むことはいい。大切なのは「今自分に足りないものは何か?」ということを洗い出して本なりネットなりで調べることだ。
調べてから、行動しようとしても意味がない。世には情報が腐る程ある。どれも大切に見える。それを全て詰め込んで挑むというのは無理なことだ。実際やってみると現実はイメージしていたものと違う。
とりあえずやってみて、ダメな部分を本なりネットなりで調べて補うというやり方でやっていく。
考えてから走るというよりは、まず、とりあえず走る。そして、走りながら考えるという感じだ。
割合は2:8でいく。とにかく実践を増やす。
読書はたくさんの知識を与えてくれる素晴らしいものだが、僕は別に教養人になりたいわけではない。
そもそも論で言えば読書は、人生の目標を達成するためのツールの一つだ。本を読むことが僕の目的ではないことを忘れていた。
頭でっかちになっていた僕に大切なのは行動。
「これからは行動してから考える」というスタンスでいこうと思う。
頭でわかってても非モテコミットは不可避。
今週の結果。
https://twitter.com/footballred11/status/926860792208617472
今週も坊主になるかと思いきや、後半ロスタイム間際でなんとかLINEをゲットすることはできた。素直に嬉しかった。
Lゲは1だが、オープン率は上がってきているので、このままLINEゲットを継続し、あとは連れ出し率を上げていきたい。
ちなみに先週手に入れたLINEは全て死番した。涙knt-united.hatenadiary.jp
よって今回交換した子が現在唯一のカード。慎重に攻めなければならない。
ん?
「慎重に攻めなければならない」?
たった今、僕は気づいた。
非モテコミットに陥っている。
「慎重に攻めなければいけない。」
このマインドこそが、僕が既に非モテコミットに陥っていることを表していた。
恋愛工学生には周知の事実だが、狙っている女の子が一人しかいないときに、気をつけなければならないのが非モテコミットだ。
非モテコミットとは?
「まだセッ◯スもしていない女性のことを好きになり、勝手にいろいろな妄想をして、その女のことに夢中になってしまう状態のこと」
男がフラれる理由のほとんどは「余裕がない」ことが原因だ。
「この女が手に入らなかったらどうしよう....」一人の女性に執着し、不安になり、焦る。結果行動がキモくなる。
これを知った時はとても辛かった。僕が学生時代にやってきたことは全て非モテコミットだった。
「やさしすぎる」
「ワクワクしない」
「友達みたい」
そう言われていつも逃げられていた。
君だけのことを考えて尽くしているのに、逃げられる。謎で仕方なかった。
逆にその子を失うのが不安で仕方なかった。
恋愛工学生となった僕は非モテコミットという概念を知ったと同時に、それを避ける方法を知った。
それは
「複数の子と恋愛すること」だ 。
狙っている女子の数と執着度は反比例の関係にある。
恋愛する相手が多いほど、執着度が減り余裕が生まれるということだ。
僕はこのことをだいぶ前から知っていたので「要は余裕のある行動をすればいいんだろ?」と一人の子と恋愛するリスクについてあまり考えていなかった。僕はわかってるから大丈夫だと思っていた。傲慢だった。
ところがどっこい。
僕は非モテコミットなうなのである。
今も僕はずっとその子のことを考えてしまっている。LINEの通知がきていないか頻繁に確認しているのである。LINEなんて普通一日一回くらいしか返さないのに、返ってきているかどうかが気になって仕方ない。情けない。
非モテコミットを注意しているので、キモい頻繁なLINEは控えているつとりだが、既にマインドが非モテコミットである。
よって、相手がどう捉えているのかはわからない。
「今の子を失ったらどうしよう....」
こう考え、不安で夜も眠れない。(普通に寝れる)
目を覚ますたびにLINEがきてないか確認している。
僕は気づいた。
非モテコミット。それはもう不可避なものなのだ。
非モテコミットは良くないと何度も聞いてきたし、理解もしている。
しかし、またこうしてそれに陥っている。生活に支障をきたしてまでも。
女の子が一人しかいない場合、非モテコミットは無意識レベルで起こってしまうことを肝に命じた方がいい。
なんでだろう?と考えていて、昔影響力の武器で読んだ損失回避の法則を思い出した。
人は得ることより、失うことの方を恐れる。同じ金額を得る喜びと失う痛みでは、失う痛みの方が2倍大きいのである。
僕らはこれから生きていく中で、まだまだ女性と知り合うチャンスはある。実際はそうなのだけれど、今いる女性を失うことを極端に恐れる習性があるのだ。
「こんな人はもう一生いないかもしれない。」
まさに非モテコミットなうの僕の気持ちだ。
頭では、世の中には似たような子はたくさんいることはわかっている。
それでもなお、この子を絶対に逃したくないと思っている。一度手に入れたチャンスを失うことの恐怖が心体の奥底の方から湧き上がってきてる。
恐ろしい、これが損失回避の法則だ。
どうすれば非モテコミットが避けられるのか
それは上のグラフにある通り、常に女が間に合っている状態を作ることだ。これは彼女がいる人もだ。いつでも他の子と付き合えるくらいの感覚が欲しい。これがとてつもない自信と余裕を生む。
さらなるモテを目指して努力することは、容姿やトークの向上に繋がる。彼女がいた場合、より好かれるようになる。長く付き合っていると、男は努力をしなくなる。努力をしない男の魅力はなくなり彼女は愛想を尽かす。でも、男にはその彼女しかいないので非モテコミットが始まる。
モテ男も非モテも非モテコミットを避けるには、この方法しかない。頭で非モテコミットを避けようとしても無駄だ。心と体がいうことを聞かない。失うことを恐れる。
大事なのは失うのが怖くない状況を作ることだ。
今回僕は可愛い子のLINEをゲットしてから、「今日はもういいや」と満足しモチベーションがなくなっていた。
でもそれではいつまで経っても劣勢な状況は変わらない。非モテの僕たちがやるべきことは、運よく手に入れた子で満足するのではなく、さらなる高みを目指すことだ。
「俺はいつだってお前以外の女とも付き合える」
そう言える環境を作っていこう。
今回の学び
・LINE交換できたくらいで満足して、その日を終わらせないこと
・しばらくは24時間365日、可愛い人がいたら話しかけるつもりで生活する。「今は女がいる」と満足しないこと
Lose yourself.
「失敗」はその人を面白くする
あなたにはどれくらいの失敗談があるだろうか。
その失敗はどれくらい常識を逸脱しているだろうか。
失敗は人を面白くする。
1、失敗談ほど面白い話はない
成功談というのは話手だけが気持ちよくなってしまうことが多々ある。まさしく飲み会の上司のように。頷いてはくれているが、周りの人は案外不快に思っているものだ。
成功談はただの自慢話になりかねないので気をつけたいところだ。特に女性の前は要注意。
一方失敗談というのは、結果がダメだったことなので、誰も不快にさせない。
自分が自分を笑い飛ばすという障壁さえ乗り越えられれば、人に話すことができる。
失敗談が面白いのは、実際にその人が身をもって体験したことであり、感情が伴っているからだ。リアリティがそこにはある。
自慢話にならずに笑いを取ることができ、なおかつ恥ずかしい経験をさらけ出すことで自己開示になり、人との信頼関係を出来上がる。
失敗談というのはいいことばっかりなのだ。
2、失敗をすればするほど、失敗を失敗と思わなくなる。
失敗すればするほど、失敗が当たり前になってくる。そうして、困難や深刻な状況な直面した時に笑い飛ばす能力がつく。
終いには、失敗をユーモアに変える力がつく。
「女の子といい雰囲気になって家までいったのに、いざコトをやろうとしたら、キレられたて終わった。それから音信不通(笑)」
状況としては、いい感じの女の子がいたのに、いざトライを試みて失敗というオチだ。
もう最悪だろう。しばらく立ち直れないかもしれない。
だが、これも面白い失敗談だ。それにこの失敗は、緊張して怖かったけれど、トライした。その結果、ダメだったのである。(実体験)
これを笑い飛ばせないとなると、うじうじと自己否定に繋がる。
「自分という男はダメで、一生恋愛なんかできない」
ではなく、
「たまたま相手が悪かった」くらいでいいのだ。こんな失敗は山ほどある。
そして自分の中できつい失敗を持っておくと、人生の大抵を笑い飛ばせるようになるものだ。
「あの時の痛みに比べれば屁でもねえすわ笑。」
というように。
失敗をユーモアに変える力というのはとても重要で、例えば
状況「女の子に声かけて無視された」
A「最悪。恥ずかしい。俺キモかったかな….。もう無理だな。」
B「くっそー。無視された(笑)。つーか、見知らぬ女の子に声かけるとか普通にキモいか….(笑)。どんどんやってやろ(笑)。」
Bのように語尾に(笑)がつくようになる。失敗に対して深刻にならず、俯瞰した態度がとれるようになる。自分を否定することもなくなり、幸福度も高まる。
まとめ
失敗はとても辛いものだ。できれば二度と味わいたくない失敗もあるだろう。
でも、その辛いことというのを笑って飛ばすことはできないだろうか。
そこには人生を楽しく生きるコツがあると思っている。
「大胆にトライする。それに失敗して笑う」これでいいんじゃないか。
人生なんて軽く扱ってやればいい。成功したからなんだ?失敗したからなんだ?
僕らはどうも日々の些細な出来事を深刻に考えている。
昔犯した失敗を考えてみてほしい。恥ずかしすぎて、クスッと笑えるだろう。
それとも、辛いだろうか?
辛くても大丈夫だ。全然間に合う。過去に対しての意味づけは後からいくらでも変えられる。だから今からでも、恥ずかしことや辛い経験を笑話に変えてやろう。
失敗を一番集めたやつが一番おもしろいやつだ。所詮人生なんて喜劇なんだから。
Lose your self.
「先延ばし」をやめたほうがいい理由
「めんどくせーから、後にしよ」
僕はこう言ってやらなければいけないことをいつも先延ばしにしてきました。
勉強、ブログ、運動、読書、毎日自分でやると決めたことをとことん先延ばしにしてきた。
やるとは決めたものの、なかなかやる気って起きないんですよね。そうしてずらずらと先延ばし。休日は気づいたら、午後になっていて、「まだ時間あるや〜」と思っていたら夜になっていたなんてことも。
とことがどっこい。この先なばしは多大なる無駄を生んでいることが最近わかった。
みなさんにも気をつけていただきたい。
この「先延ばし」が僕ら時間、エネルギーをものすごく無駄に使っているんです。
結論から言いますと、先延ばしにすると集中力が無くなります。
前提として、まず僕らには意志力というものがあります。
この意志力というやつには一日のうちで限界があって寝れば回復します。
でこいつは普段の生活の中で様々な機会で使われています。集中するときや、きついことに取り掛かったり、選択(AかBかを選ぶ)するときに消耗するのです。
スティーブ・ジョブスが毎日同じ服を切る理由はまさにこれで、意志力を消耗したくないからですね。
で、先延ばしにする何が悪いかというと、先延ばししてる間に意志力を消耗するんです。理由は先延ばしにしている間も脳に選択を続けているからです。
「やっぱりYoutubeでこの動画みてから勉強しよ」(Youtubeか勉強の選択)
「やっぱりこの動画あと一本見てから勉強しよかな」(この動画をあと一本見るか見ないかの選択)
ほんとは勉強したいという気持ちと、youtubeも見たいという選択に葛藤があります。youtubeの誘惑に我慢するかどうかの意志力も使われます。
よく飲食店で「なんでもいい」ってメニューを選ばない人がいますが、それは選ぶのがめんどくさいのです。選択という行為はそれくらい意志力を使うのです。
「先延ばし」の時間は延びれば延びるほど、選択の回数を増やすことになります。
この瞬間、「誘惑に負けるか」or「我慢して作業にとりかかるか」の選択の機会を増やすことになるからです。
さらに、タスクから目を背けたとしても、僕らは本来の「やらなければいけないこと」をぼんやり考え、気を取られているので他の作業に集中できません。モヤモヤした状態で他のことをやる状態です。
やらなければいけないことはわかっているけど、他のことをしちゃう。
そして、いざ夜になってとりかかったところで意志力が残っていないので集中できません。先延ばししている最中の選択葛藤で意志力は消耗されたのです。
先延ばしというのは恐るべし、無駄です。
だから、あなたがやると決めていることは、後回しにせずすぐにやるべきなのです。
やると決めたことを終わらしさえすれば、あとの時間は特に気を散らすことなく、物事に取り組むことができます。
先にやるべきことにとりかかれば、タスクに関しても、好きな時間に関しても高い集中で取り組むことができます。
集中する→生産性が上がる→時間が増える
結果同じことをやるにしても、先なばしにせずにやったほうが人生の時間が増えるんですね。
あなたがこうしてタスクを先延ばしにして、このブログを見ている瞬間にも、意志力は消耗されています。今日やるべきことやりましたか?
先にやっつけてしまうのがオススメですが、時間を決めればそうとは限りません。
「今日は13:00から勉強する!だから午前中はアニメみる!」
事前にそう決めているのなら、思い切ってアニメを見ることができるできます。そこには選択がないからです。
「本来は勉強すべき時間だけど、アニメも見たいし、どうしよ〜」
こんな気持ちでアニメを見ても、頭はずっと、どのタイミングでアニメをやめるかという選択に晒され、意志力を消耗していくのです。
つまり、先延ばしで悪いのは、今やるかどうかを迷いながらいることです。
そこでは、やるorやらないの選択が繰り返されています。もう一度言いますが、脳は選択するときに意志力を使うので、その時間ものすごい意志力を使うことになるんですね。
だから、なるべく自分が選択をしない仕組みを作るのがおすすめです。
「先延ばしなう」の状況は常に今始めようかどうか脳は迷っているので、要注意です。
やるならやる、やらないならやらないと決めることです。
今やれない状況にあることに関しては紙やスマホの予定に、「何時からやる!」と決めれば、選択や葛藤の回数が減ります。
まとめ
・やること終わらしてから遊ぶ方が両方集中でき、両方の生産性が高まる
・よって人生の時間が増える。
Lose yourself.